エターナル・クルセイダース

- Prologue 4 -

 空にある雲の暗さは、時間が経つにつれて増していった。ぬかるんだ土の上、龍也は土
砂の先頭で、鈍い光沢を放っている何かを見ながら佇んでいた。
 ずっと気にしていた、由佳里の消息。途中で地すべりがあったことを知り、このままで
は村のほうにも、被害が及ぶことを村人たちに伝えるべきだろう。しかし、地すべりによ
る目の前の土砂は、既に龍也の大事なものを奪っていったのかもしれなかった。
 不安と焦りが、龍也の頭の中をよぎった。これでもう、何度目だろう?
 龍也は歩を進め、それが何かを確認することにした。歩くごとに、足の裏からぬかるん
だ土の感触が伝わってくる。全身から、いやな汗が噴出していた。
 鈍い光沢を放っていた何かの前にたどり着くと、龍也はしゃがみそれを手に取った。泥
がついてたそれを、左手の中で転がし除けた。それが出ない程度の握りこぶしの隙間から、
泥が土の上に落ちていく。
 拳を開いた。
 小さなリングだった。そして、それは結婚指輪であることにすぐに気づいた。何故なら、
そのリングのデザインは龍也の左手薬指にしてある結婚指輪と、全く同じものだったので。
 龍也は手のひらのリングと、自分の結婚指輪を見比べた。間違いない。このリングは、
由佳里がつけていたものだ。そして何らかの理由で、ここに落ちていた。その理由は一つ
しか考えられない。
 由佳里は、この土石流に巻き込まれたのだ。
 龍也はリングを手のひらの中で握り、拳に力をこめた。その拳を雲しかない空に向かっ
て高く掲げると、そのまま一気に振り下ろした。その左手がぬかるんだ土に勢いよく埋ま
り、少量の泥が龍也の顔面に飛び散った。左手を土に突っ込んだまま、龍也は軽いめまい
に襲われていた。目を瞑った。
 最愛の人を亡くしたという感覚は、龍也の頭の中から思考能力を奪っていた。尊い命を
奪っていった土石流に対する怒り、由佳里を失ってしまった悲しみ、そんな彼女を守れて
やれなかった自分の不甲斐なさ。全てが複雑に絡み合う中で、龍也は何が何だか分からな
くなっていた。狂いそうだった、と言えばいいのかもしれない。
 しばらくの間(龍也にとってはすごく長く感じられた)、土に埋めていた左手をゆっく
りと引き抜いた。手についた土砂が音もなく地面に落ち、それでもかすかに手には泥が残っ
ていた。手のひらには泥のついてない、まるで由佳里そのものを示すような綺麗なリング
が乗っていた。そのリングを見て、龍也ははっと気づいた。
 由佳里は龍也に残してくれたものがある。愛する一人息子、貴志の事だ。
 恐らく由佳里は、貴志と一緒に龍也を迎えに行こうとした矢先に、この土石流に巻き込
まれたのだ。そして一瞬早く、貴志を川に流したことで小さな命を土石流から守ったのだ、
自分自身を犠牲にして。それは、想像を絶する苦痛だったに違いない。
 龍也は空を仰いだ。雲は相変わらず濃く、辺りは暗くなる一方だったが、龍也の心の中
には光が差し込もうとしていた。それは、由佳里の残してくれた一筋の希望であり、いつ
も照らしてくれたやさしい光だったのかもしれない。
 今朝の風景が、脳裏によみがえった。
 早朝、牧場で家畜に餌をやるため出かける準備をしている龍也。手作りの弁当をお気に
入りのバンダナでくくり、笑顔で差し出す由佳里。言葉はなかったが、何ものにも変えが
たい信頼と愛情が、そこにはあった。そしてそれは、これからもずっと、永遠に続くもの
だと思っていた。
 しかし、もうそんな幸せな朝はやってこない。最愛の人を奪っていった土砂が、目の前
にある。人は自然の前に無力だ、とはよく言われるが改めて龍也は、その言葉の意味を思
い出していた。
 理性を失い、暴れることもできよう。由佳里の後を追って、死ぬこともできよう。だが、
そんな事をしたところで由佳里が戻ってくるわけなどない。ここで行動を起こすことは、
全て無意味にしかならないのだ。
 耐えることしか、できないのだ。
 龍也はぎゅっと唇をかみ締めた。
 リングをカッパのポケットに入れ、踵を返すと龍也はもと来た道を戻ろうとした。しか
し、その足はすぐに止まった。目の前には、信じられない光景があったので。
「は」
 呟いた龍也の前に、誰かが佇んでいた。人の気配など、微塵にも感じられなかったのに。
 いつの間にか辺りを包んでいた濃い霧のせいで、顔は見えない。霧の中に見える人影の
高さ、形からして女性であることが分かった。そこまでは、おぼろげながら確認できた。
 龍也の視線に気づいたかのように、その人影が近づき始めた。ある程度近くなると、はっ
きりとした容姿が見られるようになった。
「な?!」
 龍也は顔をしかめた。
 異様だったのは、腕や足にだらだらと血が垂れ流れているということだった。しかもそ
の血は、よく見ると服にもついていることが分かる。ほぼ全身が、血で真っ赤に彩られて
いるのだ。
 龍也は、再び混乱しかけていた。
「誰だ!」
 だが、女性は止まろうとはしなかった。近づいてくるにつれ、濃い霧の中でも少しずつ
はっきりと女性の姿が見えてき始めていた。
 龍也は目を見開いた。その女性が着ている服は、由佳里が着ていた服と全く一緒のもの
だったので。
「久しぶりね、澤村――いえ、今は狭川龍也だったかしら」
 どこかかすれたようなその声は、龍也にとっては聞き覚えがあるものだった。疲労のせ
いか、もう少しで思い出せるところで思い出せない。ただなんとなく、かなり昔に聞いた
ことがある、ということだけは思い出せていた。
 何も言い返さない龍也を見て、女性が続けて言った。
「あらやだ、まだ思い出さないの? この顔を見ても?」
 女性は顔の前を覆っていた前髪を両手で横に分け、表情をあらわにした。それと同時に、
周りを覆っていた濃い霧が一瞬で消え去った。
 龍也の口が一瞬、無防備に開いた。
「何――だってッ」
 それはかつて、龍也が倒したはずの宿敵だった。約二十年前、故郷の町全体を巻き込ん
だ静かな戦いの中で、全てを裏で操っていた張本人――吉舎佳子だった。
「思い出したようね……」
 佳子の口が、にやりと笑った。歪んだ、と言ってもいいかもしれない。
 間違いない。こいつは、何らかの過程で由佳里の体を奪ったのだ。龍也は直感的にも、
そう確信した。
 一歩、龍也は歩を進めた。背中からは静かに『セブンハーツ』が出てきている。
「懐かしいわ、そのスタンド……『セブンハーツ』、だったわね。あの時はさんざ苦しめ
 られたの、覚えてる」
 佳子はそう言いながら、龍也と同じように一歩、足を踏み出した。ゆっくりとその後ろ
から、スタンドが姿を見せようとしていた。
「……『ザ・ニューワールド』!」
 龍也は約二十年前の最後の戦いを、思い出していた。佳子が見せた『ザ・ニューワール
ド』、その能力は佳子の幻想の世界を作り出し、現実の世界を侵食していくというものだ
ということを。しかし、まだ佳子が張本人として特定されていないとき、能力は全く異な
るものだった。スタンドは精神力、精神力が成長すればまたスタンドも成長するのだ。逆
も、然り。
 龍也の『セブンハーツ』もパワーこそ発現当初より大きく成長したものの、能力として
の成長は殆どなかった。だが、最後の戦いで窮地に立たされた際発動した、イレギュラー
的な能力が『セブンハーツ』にはあった。全てが終わったことで、スタンド使いとしての
鍛錬や修行を怠っていた龍也に、その能力が運よく再び発現するという自信はひとかけら
もない。しかもその能力は、発動の際に、とある物を必要としており、当然今の龍也の手
元にはなかった。
 龍也は右手で額の汗を拭い、構えた。
「由佳里を、返してもらうッ!」
「断るッ!」
 その刹那、龍也は走り出していた。佳子もまた、同じように走り出した。
「『セブンハーツ』ッ!」
「『ザ・ニューワールド』ッ!」
 龍也は十八番の右ハイキックを繰り出した。スピードは速く、並大抵のスタンド使いで
はガードすらもままならないだろう。威力は岩石を砕くことも容易く、加えて怒涛のラッ
シュを繰り出せば破壊できないものなど、この世にはない。幾多の戦いを乗り越えた龍也
の、戦いの年季を感じさせるには十分なものだった。
 佳子が左ストレートで相殺しようとする前に、龍也の右脚は佳子の延髄を捉えていた。
触れたと分かった瞬間、いつものように一気に右脚を振り下ろそうとした。
 だが、いつもの感触と異なるのに気づくまで、それほど時間はかからなかった。
「はッ」
 その声を出したときには、それがただの丸太だと分かっていた。確かに目の前には、今
さっきまで吉舎佳子が対峙していたというのに。
 龍也は一瞬、時が止まったのかと錯覚した。だがその錯覚は、腹部から伴う強烈な痛み
によって消えた。
「気づいたときにはもう、遅い」
 その声は、幾分遅れて龍也の耳に入ってきた。下を向いた瞬間、自分の腹部に拳ほどの
大きさの穴がぽっこり、空いているのが分かった。
「うおおおおあああああああ!」
 叫んだ口から血が吐き出され、『ザ・ニューワールド』が貫いた腹部の穴の出血と混ざっ
て、土の上へと落ちていった。その傷により急激に両足から体重を支えるほどの力がなく
なり、龍也は前かがみでその場に倒れこんだ。その傷は龍也にとって、十分に致命傷だっ
た。喋ろうと口を開けただけで吐血し、体力を余計に消耗してしまうのだ。
 傷口を押さえたまま動けない龍也の前で、佳子が見下ろしていた。
「その傷では二度と立ち上がることもできないでしょ? 死ぬ前だから、いいこと教えて
 あげる。あたしがあの時、生きながらえたのはあんたのおかげ。あんたの『セブンハー
 ツ』があたしの肉体と精神を分離してくれたおかげで、あたしの精神はこの体……“佳
 織”ちゃんの一部に入り込むことができたのよ」
 それを聞きながら、龍也は薄れ行く意識の中で、今でもはっきりと覚えているあの戦い
を思い出していた。二十年前の不滅町、通っていた学校不滅学院屋上での戦い。吉舎佳子
の完成したスタンド『ザ・ニューワールド』の幻想世界を打ち破り、それまでに見たこと
のない『セブンハーツ』の能力が佳子の精神と肉体を分離し、滅ぼしたこと。全てはあの
時に、終わったはずだった。
 過去は、少なからず因縁を未来へと持ち越しいつしか大きな災いを呼ぶ。激戦の中から、
龍也が学んだことのひとつだ。そして全てが終わったとき――澤村龍也は狭川龍也として、
長谷川佳織は長谷川由佳里として過去を捨て、新しい人生を歩んできたはずだった。
 しかしその新しい人生も、全ては偽りだったのだ。由佳里は由佳里でありながら、由佳
里ではなかったのだ。それは、あまりにも気づくのが遅すぎた、近すぎる因縁。
 不意に全身の力が抜け、龍也はそのままうつ伏せの状態で倒れた。しかしそれでも、顔
だけは佳子のほうへと向けていた。時々視界がおぼろげになり、焦点が合わなくなったが、
それでもじっと睨んでいた。
「久々にスタンドを操作して、途中制御し切れなくてこんな台風とか呼んじゃったけど。
 まぁ、結果としては悪くなかったわ。久々に自分の体として思い通りに動けたのだから。
 でも、しばらくはこの傷を治すことに専念したほうがよさそうね」
 全身の血を拭いながら、佳子が言った。
 既に龍也は意識が朦朧としており、佳子の声は耳に入ってこなかった。腹がたまらなく
熱く、また時折降り注ぐ雨粒が傷口に入るたび、口からは吐息が漏れていた。しかしその
全身の感覚も、少しずつなくなりつつあった。
 思った。佳子、結局俺は貴様に負けたわけか。
 思った。由佳里、ごめんな。お前の事、一番近くにいた俺が助けてやれなくて。
 思った。貴志。お前を残して先立つ父さんの事を許してくれ。せめてお前だけは、この
運命の渦から逃れて欲しい。今となってはお前は俺の、希望――。
 突然、龍也の前で止まっていた土石流が動き出し、こちらに向かって流れてくるのが分
かった。既に佳子は、どこかに行ってしまっていた。一ミリも動けない今の龍也の状態で
は、『セブンハーツ』すら発動できない。
 半ば閉じたまぶたの向こうの、真っ暗になった視界。闇の向こうで、由佳里が手を振っ
ているように見えた。それが龍也の最期の知覚だった。大量の土砂と岩石が龍也の体を巻
き込みながら、勢いよく下流へと流れていった。

... to be continued

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