エターナル・クルセイダース

- Prologue 1 -

 雷の落ちた音が聞こえる。もう、これで三度目だ。
 この日、村の上空には数十年ぶりの大型台風が滞在していた。雨が降り出して以来の降
水量は四百ミリを超え、村の水源となっている日暮川は氾濫し、村全体を水が押し寄せよ
うとしていた。
 狭川龍也の住んでいるこの家も、既に床下浸水が始まっていた。そして今、龍也は家の
中で避難するために持っていく物を探している。
「救急バッグはどこだったっけな」
 クローゼットのドアを開け、中を懐中電灯で照らした。しかし、救急バッグと思わしき
バッグは見当たらなかった。龍也は仕方なく、クローゼットの中を探すのを諦めドアを閉
めた。
 不意に見上げた戸棚の上、写真立てが龍也の目に入ってきた。
 その写真はちょうど一ヶ月前に撮った、牧場での家族写真だった。少し硬い表情をした
龍也が左上に立っており、その右手には目を細めて微笑んでいる妻、由佳里。そして二人
の手は真ん中の一人息子、貴志の肩に乗せられていた。貴志の表情は幼いながらも、どこ
か父親である龍也の風貌を見せていた。こちらも少し、表情が硬い。
 龍也はその写真を少し見た後、不意に外から聞こえるドアのノック音に気づいた。外の
雨音はすごく強いが、ノック音も負けないぐらい強いものだった。
 やれやれ、何をそんなに力んでいるんだ。
 そんなどこか気だるさのようなものを感じながらも、龍也は玄関に向かった。
 湿ったノブを回し、ドアを引いた。さっきより勢いを増した雨と、カッパを着ながらも
ずぶぬれになっている男の姿が目に入った。
 何となく彼の言いたいことは分かるが、念のため声をかけておいた。
「どうしたんだ?」
 男は何を今更、というような表情を一瞬見せた後、答えた。
「あんた以外の村人は全員広場に非難したんだ。早く来てくれよ」
 龍也は返事をせずに家の中に戻ると、ガスの元栓、各部屋の施錠等を確認した。部屋を
まわる途中、廊下の一部が濡れていることに気づいた。浸水が徐々に始まっているのかも
しれない。
 確認が終わり、龍也は玄関に向かった。
「行くか」
 そう言いながら龍也は靴を履き始めた。顔を上げると、男は既に家の前にはいなかった。
どうやら、待ちきれずに先に行ってしまったようだ。
 靴を履き、立ち上がると帽子掛けからいつものハットを取り、頭に被った。軒下に出る
と、再び一瞬の閃光。これでもう、四度目だ。
 顔をしかめ、龍也は天を仰いだ。
 普段は澄み切っていた青い空も、この時ばかりはまるで不機嫌を象徴しているかのよう
に厚い雲が覆っていた。
 目を下ろせば、日暮川から氾濫してきたであろう大量の雨水たちが入ってきた。龍也の
くるぶしまでがすっかり見えなくなっている。
 雷の音が鳴り響いた。閃光からの時間差を考えると、さっきのは少し離れた場所に落ち
たようだった。
 ハットのつばを二、三回ほど下に引っ張り、龍也は雨風の中を広場に向けて走り出した。
広場までの道は何度も通いなれているのだから、すっかり体が覚えてしまっている。広場
は村の中でも役場の次に高い場所にあるため、日暮川が氾濫してもよほどの事がない限り
は安全だ。
 途中、何軒か家の前を通ったが、人影はなく、既にみな非難しているようだった。
 走っている龍也の目に、広場にそびえ立つ時計塔が入ってきた。時刻は既に昼の四時、
初夏とはいえあたりは既に薄暗く、雨に打たれた体は冷えている。
 くるぶしあたりまでを隠していた水は、既になくなっていた。ただ、時折できている水
溜りの上を通り過ぎるたびにバシャバシャと泥水が飛び散った。
 その時、今まで聞いていた音とは明らかに違う轟音が聞こえてきた。決して雷の落ちた
音ではない。音が鳴りはじめ、しばらくすると地面が揺れているのが分かった。揺れは十
秒ほど続いた後、音が鳴り止むのとほぼ同時に止まった。
 龍也は辺りを見渡したが、周辺の山で地滑りが起きたような形跡はない。
「なんなのだ、一体」
 そう呟き、龍也は再び広場に向けて走り出した。
 緩やかだが長い坂を上りきり、龍也はようやく広場へとたどり着いた。広場の中には既
に避難を終えて休憩している村人たちの姿があった。
「龍也! やっと来てくれたな!」
 村人たちの話し声の中から、聞きなれた声が漏れてきた。龍也はゆっくりとその声のし
たほうへ歩を進める。
 龍也が村に来て初めて作った友人、坂口亮の姿があった。
「相変わらず硬い表情してるな」
 笑顔で亮が言う。
 龍也は無精無精、といった感じだった。横を向いた。
「お前の事だから律儀に家に帰って必要な道具を探してたんだろう? もっとも、その様
 子じゃ何も見つからなかったようだが」
 確かにそうだった。家に帰って龍也が持ってきたのは、愛用のハットぐらいだったのだ。
「ところで……」
 幾分、語調を低めにして亮が言った。
「龍也、お前、由佳里さんと貴志君に会ったか?」
 その言葉を聞き、龍也は亮のほうに向き直った。亮の顔からは既に笑顔が消えていた。
「いや、見ていない」
「そうか」
 今度は亮が龍也の顔から視線をはずした。少し前に歩き、休憩している村人たちを見な
がら言った。
「実はまだ、由佳里さんと貴志君の姿が広場に見えないんだ」
 龍也は亮の横に並び、広場を見渡した。確かにそこには、見慣れた妻と息子の姿はどこ
にも見当たらない。
「さっき、みんなに聞いてたら由佳里さんと話したって言う人がいてね。なんでも龍也、
 君を牧場の近くまで迎えに行くって言ってたらしい」
 龍也はハットのつばをつまんだまま、下を向いた。
 思い当たる節が、あった。
「……今日、俺が山を降りるとき、いつもと違う道を通ったんだ。その時に、由佳里たち
 とすれ違ってしまったのかもしれない」
「なるほど」
 龍也はハットのつばを下に二、三回ほど引っ張り、後ろに振り返った。走り出そうとし
たその腕を、亮のがっしりした手が掴んだ。
「由佳里さん、もしかしたらまだ山道でお前を探しているかもしれない。行くんだろう?」
 龍也は亮のほうを振り返らずに無言で頷いた。
 強くなった雨が、龍也の腕を伝って亮の右手に移り、汗と混じった。
「みんなにも協力してもらおう。一人で行ったんじゃ、再び入れ違いになっても困るから
 ね」
 龍也は横目で亮のほうを見ながら言った。
「すまないな、亮」
 亮の手を振りほどき、龍也は今来た道を再び走って戻り始めた。
 後ろでは、亮の周りに人だかりができ始めていた。亮は自分と違い、器用で人望もある。
きっと由佳里たちを探すための作戦もすぐに思いつくに違いない。龍也は人を頼ることが
苦手だった。自分で何もかもしてしまうのは自分勝手だと誤解されやすいが、自分でする
からこそ安心も覚悟もできるのだ。
 それが、龍也の信念だ。
 雨足は依然、弱まる気配を見せない。上空も風が強いのだろう、雲の流れていくスピー
ドがかなり速く見えた。それでも、雲は尽きることなく空を覆い続けている。
 時折強風に飛ばされそうになるハットを左手で抑えながら、龍也は牧場への道を走って
いた。雨でぬかるんだ地面が、足で蹴るたびにバシャバシャと音を立てた。

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